武士でありながら庶民の娯楽に才能を発揮した朋誠堂喜三二
蔦重をめぐる人物とキーワード⑱
■武士として藩の要職にありながら流行作家に
江戸時代中期を代表する戯作者・朋誠堂喜三二は、1735(享保20)年、江戸で西村久義の三男として誕生した。14歳のとき、出羽国久保田藩(現在の秋田県)の藩士・平沢家の養子となり、「平沢常富」(ひらさわつねまさ)と名乗って武士の道を歩むことになる。
武士としての喜三二は、御小姓や御勝手世話役を歴任し、1781(天明元)以降に江戸留守居役に就任。これは藩邸の運営を担う重職であり、幕府との交渉を担う重要な役割でもあった。
喜三二は公務のかたわら、吉原をはじめとする遊郭に頻繁に出入りしていた。若き日には「宝暦の色男」と称されることもあったらしいが、これは単なる遊興ではなく、政界の裏話や江戸の風俗、町人の会話を観察する場として積極的に活用していたようだ。
喜三二の文人としての活動は、1773(安永2)年の洒落本『当世風俗通』の刊行から始まる。洒落本とは、主に遊里を舞台にした会話体の読み物であり、本作によって彼は文人として名を知られるようになる。
その後、喜三二は、絵と文で構成される娯楽本である黄表紙作家として頭角を現す。恋川春町(こいかわはるまち)と並び称され、一流の戯作者として地位を確立させた。武士でありながら庶民の娯楽に才能を発揮するという、当時としては異色の存在であった。
代表作は『桃太郎後日噺』(1777年)、『景清百人一首』(1782年)など。いずれも江戸庶民の暮らしを皮肉とユーモアを織り交ぜて描いた。
とりわけ『見徳一炊夢』(1781年)は、黄表紙を子供向けの読み物から、大人の風刺文学へと進化させた画期的な作品とされる。
しかし、1788(天明8)年、著作の『文武二道万石通』が、当時の老中・松平定信(まつだいらさだのぶ)の推し進める寛政の改革を風刺した内容であるとして問題視される。その結果、藩主から筆を折るよう命じられ、黄表紙作家としての活動は幕を閉じた。以後、喜三二は公的に文筆活動を行なうことができなくなる。